“ハーバード大・人気教授が語るアジア式教育の優秀さと弱点とは?” (ハフィントンポスト )

ハフィントンポスト

マイケル・プエット教授インタビュ

“ハーバード大・人気教授が語るアジア式教育の優秀さと弱点とは?”

2015年 11月 18日

エマニュエル・パストリッチ

 

マイケル・プエット教授は、ハーバード大学・東アジア言語文明学部教授で専門は中国史。現ハーバード大学委員会会長。研究は人類学、歴史、宗教、哲学など多岐の分野にわたり、代表的な著作に『創造の二重性』(原著2001、未邦訳)、『神になること』(原著2002、未邦訳)がある。ハーバード大学で最も学部講義の面白い教授5人の一人に選ばれている。

 

エマニュエル・パストリッチ(以下、パストリッチ):アジア式教育は世界で賞賛を集めています。アメリカではアジア式教育を真似する両親がいるほどですが、アジア人の多くは教育システムにうんざりしていると聞きます。なぜアジアでは学歴が重視され、学生は試験や資格に追われるのでしょうか?

プエット(以下、プエット):アジア式教育には確かに二つの側面があります。

まず、伝統的に東アジアでは教育に大きな比重が置かれ、それが現代の東アジアの経済成長の原動力になっているのは間違いありません。

同時に、東アジアではテストの成績で人生が大きく左右されるため、子どもたちが学校や塾で受ける教育はテストの点数を上げることばかりが強調されます。子どもはテストの点数によって評価され、テストの結果をもとにキャリアを設計していくことになります。例えば、数学のテストの点数が良ければ理系コースを進むことになりますし、他の分野でも同様に、高得点者はその分野に進路を進めることになります。実は、こうした教育方針は古くからあるもので、その歴史は中国の科挙制度にまで遡ります。

中国の科挙制度は、身分に関わらず試験に受かれば高い地位の役職に就けるという制度で、非常に先進的だったと言えるでしょう。

パストリッチ:日本、中国および韓国における今日の科挙制度――能力優先主義とでも呼びましょうか――では、いくつかの重要な試験によって人生が左右されてしまいます。こうした試験は、教育産業と密接に関わっており、利益を創出するために関連業者は、このシステムを維持しようとしています。こうした状況は大きな反動を生み出し、システムから逃れるために子どもをアメリカに送る親も少なくありません。

プエット:アジアの教育は度が過ぎていて、改善しなければならないという意見はわかります。ただ、前近代の東アジアの教育がどう機能していたかを見ると、「伝統的なアジア人から学ぶべき価値がある」と私は言いたいです。狂気とも言える受験競争を伝統的教育と混同してはなりません。

中国の昔の科挙制度が一体どうであり、教育がどういうものだったのかを調べると、現代とは別次元で教育が実践されていたことが分かります。確かに、試験は重要でしたし、勉強は試験に関連付けられていました。しかし、学習の目標は自己を磨く術を身につけることであり、教育は人生や世の中に対する全体的なアプローチの一部でした。テストの点数の取り方ばかり学ぶ視野の狭い現代教育より、遥かに深く意義のあるものだったのです。

パストリッチ:中華民国の評論家、林語堂(1895-1976)の名著『生活の発見』には中国の伝統的な人生観や人間観がよく表れていますね。彼の著作を読んでいると人生そのものが教育の目的だと思うようになります。

プエット:伝統的な中国教育の革新的要素のひとつは、教育は適性に基づくものではないということです。教育の裏側には、我々人類は面倒な存在である、という前提が組み込まれています。どんな人になるかは、人生を生きていく中でどう自分を磨くかにかかっているのです。

なので伝統的な教育においては、数学や他の科目が得意かどうかは重要ではありませんでした。当時の教えは「貴方は何かに才能を持って生まれてきたのではない。自己を鍛えることで物事に精通できるのであって、先天的な才能ではなくて練習と訓練に集中するべきだ」というもので、儒学者たちは適性という概念を認めませんでした。むしろ肯定的な気質を探すのに集中し、訓練こそが差を産むのだと考えました。

ふたつめに、昔の中国人にとって学びの主な目的は技術習得ではありませんでした。技術はより高い目標に到達するために得る手段に過ぎませんでした。彼らにとっては、教養のある道徳的な人物になることが目標そのものだったのです。

昔の中国人は倫理的に正しい人間を生み出すことを願っていました。教育を通じ、状況をよく把握でき、周りの人々を助けられるように振る舞うことを教えました。そして何よりも、リーダーには倫理観が必要だと説きました。人間は自身が権力を行使できる位置にあるならば、権力のない者を助けるために、どう体制を運営しなければならないのかを悩める人格が必要なのです。記憶力や問題解決能力は二の次です。

しかし皮肉にも、現在の東アジアのテスト重視の教育は、このような伝統的な教育の側面のすべてを切り落としています。大抵の場合、適性に重点が置かれ、自己の発展はあまり重要視されません。仮に、発展に関心があっても、倫理観は重視されないでしょう。現代のアジア人にとって教育の核心はこう要約できるでしょう。

「数学は得意ですか?」と。

パストリッチ:日本と韓国の統一試験は、30年前と随分変わりました。以前は、三次元的思考を要する、よりセンスのある問題が出題されていました。問題に対する深い洞察力がない限り、公式を当てはめるだけでは決して解けない類の問題です。しかし今日では、塾に通って何度も練習すれば解けるような問題ばかりで、常識にとらわれない思考は必要なくなってしまいました。練習問題を何度も解けばそれでいいのです。

プエット:ええ、試験が学習の機会ではなく、通過儀礼と化してきたのは非常に残念です。このような動きは、かつての教育の意味を削ぎ落としてしまいます。中国の科挙試験には、一生かけても記憶力では解けないような内容が出題されていました。試験は主に志願者が善人になる努力をしているかを見極めることに目的がありました。

パストリッチ:実際の試験問題はどのようなものだったのですか?王朝ごとに違うでしょうが、昔の中国人は科挙試験を通じてどのように道徳的修養を測ったのでしょうか?

プエット:試験には明確な答えのない問題が出題されました。例えば、「もし貴方が国家公務員ならば、このような状況でどう対処するか」といった類の問題です。試験の趣旨は正確な回答を要求するものではなく、多くの場合、正しい答えなどありませんでした。試験の目的は、もし国家の権力が与えられたと仮定した場合、志願者が複雑な状況にどう善処するかを見ることだったのです。

試験対策は一筋縄ではいかず、一見問題とは関係のない分野の知識まで幅広くカバーする必要があり、相当にハードな教育過程だと言えます。しかし、あくまでも試験の焦点は、この教育過程を通じて善人になる努力をしているかを試すことだったのです。このような問題には知識の詰め込みでは対処できません。

パストリッチ:科挙試験には、詩や文学やエッセイが出題されることも多かったと聞きます。作文が重視されたのは何故なのでしょうか?

プエット:志願者が教育を通じて善人になる努力をしているのかを見極めるのが、試験の目的だったので、試験では志願者の人格を測る問題が出題されました。その目的に適していると思われたのが、詩などを書かせることだったのです。文章には人格がにじみ出ますからね。なので、優れた詩かどうかを採点したのではなく、文章からにじみ出る人格を見ていたのです。

パストリッチ:昔の中国の教育をどう捉えていますか?教授と生徒の関係や、教科書の使用法、口頭・論述試験などの要素を含めた中国古典教育の全体像を伺いたいです。

プエット:教育は、より良い人間になるように訓練することに目的を置いていました。もちろん学生は多くの本を読み、数多くの詩を覚える必要がありました。しかし教育はそこで終わらなかったのです。

パストリッチ:そこからが始まりだったのですね。

プエット:ええ、すべての学びは善人になるためにあったのです。教師は論語に描写される孔子を模倣しました。孔子は、まず自身が善人になるために努力をし、隣人が善人になるのを助ける人物として描写されていますからね。

孔子の基本的教育アプローチはこのような感じです。孔子がある状況に直面したとき、弟子はその状況を表すのに相応しい詩を引用しなくてはなりません。そこに正しい答えはありません。弟子は、状況に相応しいと思う詩句を引用します。すると、孔子は首を横に振り「いや」と言います。別の弟子が、自身が思う相応しい詩句をまた詠みあげます。孔子はまたも首を横に振ります。次に、また別の弟子が他の詩を詠みあげると、やっと孔子は首を縦に振り「そうだ」と言います。

「そうだ」と言うのは、その詩句が状況をよく表していながらも、他の観察者たちの殻を破り新しい視点で考えさせた、という意味なのです。

パストリッチ:試験自体が人びとを変化させるということですね。

プエット:その通りです。この試験の核心は、引用すべき的確な詩句があるわけではないということです。試験の意図は、状況をよく感知し、そこで自身が学んだことをもとに隣人を変化させることができるかなのです。このようなアプローチの要点は、どれだけ学んだかではなく、学んだことを通じて日常生活で周りの人々に良い影響を与えられるかが重要なのです。

パストリッチ:今日のアジアおよび世界の教育の一番大きな問題の一つは、学生に情報を完璧に理解させなくてはならないと判断してしまうことです。学生は、教師が知識を注ぐ皿に過ぎません。しかし結局のところ、同じ皿に、より多くの知識を注いでいるだけなのです。このような過程では変化は起こりません。学生は、学ぶ過程において変化するべきです。

プエット:東アジア文化圏のどこの地域でも、教育は変化のためにあると考えられてきました。それに対し、現在の教育では試験で高得点を取れても、それはどのような方法や形態においても学生が人間として成長したという事実を暗示しません。昔の東アジアでは、現在の教育は決して受け入れられなかったでしょう。教育は善人へと成長していくことを目指していたのです。

パストリッチ:同時に、中国の2000年に及ぶ教育史において、周期的な変化もありました。王朝が交代するにつれて科挙試験は形式化し、道徳や倫理とは一切関係がなくなってしまった時期もありましたよね。

プエット:確かにそういう時期もありましたが、教育に完璧というものはありません。改善の余地は常にあるものです。中国では、教育はどうあるべきで、人格を計るために試験はどうあるべきかについての議論が何世紀にも渡って交わされてきました。そして言うまでもなく、完璧な解決策は見つかりませんでした。

時間と共に、教育政策は癒合し形式化していきましたが、人びとは倫理教育が離れていくことを憂慮し、また議論が再燃するだろうと考えていました。そして実際その通りになったのです。私は中国の伝統文化に魅力を感じているのは、テストの点数よりも価値観に重点が置かれていたからです。

現代を眺めてみると、若者たちは限定的な教育観念の上で、熾烈なテスト競争を強いられています。残念ながら、私たちはこの限定的な教育観念を「必要悪」と考えてしまうため、一歩立ち止まって教育制度を議論することもないのです。しかし、私たちは過去から学ぶことができます。

中国と韓国における教育制度に関する議論は建設的で、アジアの教育体制の変革の糸口となっています。この教育システムによってどのような価値観が蒸発してしまったのかを私たちは自問しなくてはなりません。もしこの教育制度に不満があるのなら――多くの人はそうでしょうが――、どう変えていくべきかを考えるべきです。

パストリッチ:教師の役割についてどうお考えですか?伝統的な東アジア社会における教師の立場は今日とは随分異なっていましたが、今日では教師も生徒も消費される商品として見なされる傾向が強まっているように思えます。

プエット:中国の教師たちは孔子を模範とし、彼の献身的な教育の実践を心がけました。同様に、業績や指導技術といった形式的側面よりも、常に善人になろうとする心がけが教師の条件で最も大事だとされていました。教育課程のすべてが、教師と学生の両者にとって「人間としての成長」だと見なされていたのです。教師が完璧な人間でなくても、善人としての心構えがあれば、周囲の人びとに良い影響をもたらし、生徒もそれを真似するだろうという理念でした。

教師は、生徒に知識を注ぎ込んでテストで良い点数を取らせるのが仕事ではなかったのです。倫理感がない試験には何の意味もありませんでした。教師は、善い行いを奨励し、次の世代にも同様にさせることが理想とされました。

パストリッチ:しかし、現代中国の状況はそれとかけ離れています。中国の大学教授や教育庁の官僚にこういう話をしたならば、「良い考えだがどうすることもできない。社会全体の構造がこうなっているのだ。」といった答えが返ってきそうですね。変化のための効率的な方法は何だとお考えですか?教育を取り戻すためにはどうすれば良いでしょうか?

プエット:きっかけは、なぜ教育が存在するのかについての議論に再点火することで生まれるでしょう。「どうやったら名門大学に入れるのか」といった質問をやめ、「教育はどう社会をより良くできるのか」を問えば、人びとも実質的な問題の存在を理解し、本当の変化を成し遂げるための具体的な段階を踏めるでしょう。

試験の構造と私たちの社会における試験の役割を変えなくてはなりません。社会全体が試験をもとに回り続けるならば、教育はこれからも試験に合格することばかりに集中してしまうでしょう。

不思議なことに、試験の目的は何かという問いを私たちはあまり考えてきませんでした。すべての子どもたちが過酷な試験競争を経験しなければならないでしょうか?様々な側面から見ても答えはきっと「いいえ」ではないでしょうか。しかし、私たちの関心が試験そのものではなく、試験のための価値や動機になるように、このような試験をどうやって再構築するのかを考えなくてはなりません。

パストリッチ:プエット教授ご自身は教育者として誰をロールモデルにしていますか?

プエット:私は今までお話してきたようなことを理想としています。足りない部分も多いですが、毎朝気合を入れて、日々切磋琢磨することを心がけています。

幸運にも私は、人として尊敬できる素晴らしい教師に恵まれました。彼らは、教育を成長の場と捉え、知識の伝授よりも学生を真の意味で成長させてきました。私もそれに倣おうと努力しています。

パストリッチ:ご自身の授業では中国の教育をどのように応用していますか?

プエット:中国哲学の授業を教えるときは、学生に一次資料のみ配布しています。英訳された原文ですね。解説書や他のテキストは読ませないようにしています。二次資料は、原文を枠にはめて解説してしまう傾向があるからです。

生徒には、常識を疑って自分の頭で原文の内容に立ち向かって欲しいです。言い換えれば、生徒の限界に挑戦しているようなものですね。内容に同意できなくても、原文と格闘して自分の常識に挑戦してみて欲しいのです。

なので私はいつも授業で生徒に質問を投げかけます。生徒の主張が正しそうでも、「ならこの単語は?このフレーズはどう捉える?」といった質問をして、生徒に常識を破らせようと努力しています。

パストリッチ:中国哲学を教えるときは、「年長者を敬い、家族を世話し…」といったありきたりな儒教の教えを繰り返すだけにならないように気をつけなければなりませんよね。でも実は、これもよく読むともっと深い意味がありますよね。

プエット:全くその通りです。中国古典を読む際には、「善人になり、周囲の人々を助けよ」といった薄っぺらな解釈で終わってしまわぬように気をつけなくてはなりません。教師であれば、「善人になれ」という言葉に秘められた複雑性、そしてなぜこの言葉を選んだのか、といったことを生徒に考えさせなくてはなりません。生徒が、資料の複雑性を掘り下げてくれればと思います。そして善人になることの複雑性を理解して欲しいのです。

パストリッチ:世界中で直面している教育の危機について伺います。大学は、講義の内容ではなく、施設の充実度によって評価され、学習よりも就職率に焦点を合わせています。全般的に教育の空洞化が起きていますが、正しい方向に進むにはどうすれば良いでしょうか。

プエット:様々なレベルでの努力が必要な問題です。制度的レベルでは、教育が金銭によってますます支配されてきていることを危惧しなければなりません。お金によって教育がどれだけ変化しているのかを理解する必要があります。

そして、こうした傾向に立ち向かうには実行可能な代案を提起するべきです。また、市民レベルでは、教育をより真剣に考えなければならないでしょう。

これは一部の人々が革新家として活動し、それを地域コミュニティが支持することで始まります。同時に、規模のある制度的変化を要求しなくてはなりません。例えば、試験と教室を再設計し、教育から利益を搾取しようとする動きに反対するのです。

また、新しい方法で子どもたちを教えはじめた少数の教師たちが非常に重要です。私たちが支持できる素晴らしい教育方法の例がなければ、巨大な制度的問題を解決することはできません。官僚たちは革新的な教育方法を設計することなどできません。

パストリッチ:個人的に、学生との教室外での交流が教育過程において重要だと思っています。教室で読むテキストが、生徒たちの住む世界とどういった関連性があるのかを話し合いたいです。

プエット:孔子が論語でどう描写されているかを見れば分かりやすいです。論語を読むと、孔子は、教室にも居なければ、筆記試験を課すこともしません。彼は、数多くの方法で弟子たちと仕事をし、学びを具体的な事象に適用していきました。教室の外がより教育に適していることもあるのです。

さて、成績と教室に縛られた教育制度の中で、これをどう達成できるのかは不透明です。しかし、試す機会は十分にあります。

パストリッチ:もしも、学生が400人いる講義室の教壇に、孔子を立たせたら、彼はどうするでしょうか。スライドを準備したり、中間試験について質問する学生にどう対応するでしょうか?(笑)

プエット:私たちが議論してきた要点から始めると思いますね。「この講義の目標は、これこれを覚えることでも、試験で良い点数を取ることでもありません。」こんな調子で話し出すんじゃないでしょうか。彼なら、すぐに教室を再構成して、学生が学びを通じて変化するような空間を作ると思います。事実、大講義室がその役割を果たせないということもありませんしね。

孔子は、講義のレベルを易しくし過ぎず、詰め込みにもならないように気をつけるでしょう。孔子にとって、自分の内面を磨くことと関連のない教育に意味はありませんからね。

ある意味、〈学び〉は孔子が長い間議論していた〈儀礼〉に対応するんじゃないでしょうか。

パストリッチ:ここで儀式を持ち出されるのはとても面白いですね。現代社会は儀礼から身を引いてきました。多くの人々は、儀礼は昔の人や、より原始的な社会の人々のものだと考えています。

しかし、実際には、人々はしゃべり方からデザイナー服を買う行為まで、様々な儀礼に参加しています。多くの人々は、儀礼と無縁だと言うでしょうが、それは気付いていないだけです。儒教が強いのは、儀礼と倫理を関連付けて議論できるからでしょうね。

プエット:儀礼は、伝統社会で先祖や精霊を崇拝するために行われていた古い習慣だと、アメリカ、さらに東アジアでも若い人を中心に思われている傾向があります。彼らは、馬鹿げた儀礼とは決別し、すっかりモダンになったと思っています。

しかし、孔子が現代社会を訪れたなら、アメリカだろうと、人々は常に儀礼に参加していると言うに違いないでしょう。

危険なのは、私たち自身が儀礼に参加していることに気が付いていないために、儀礼が真剣に執り行なわれず、その結果、本来の目的が果たせていないことです。儀礼は、結婚式の誓いのように、変化をもたらすときに、効果を発揮します。人生の儀礼を真剣に行わなければ、そこから得るものは何もありません。

「先祖崇拝なんてしない」と語って儀礼を拒否する人が、BMWに乗り、子どもを高い私立学校に通わせることに執着していたりします。私たちはまず、これらが現代の儀礼だと受け入れ、そして「この儀礼は私たちを善くしているのか」という質問を投げかけなくてはなりません。もし答えがノーならば、これらが実は儀礼であることに気を付け、その象徴的・社会的機能に気を付けなくてはいけません。そうしてこそ、この状況をコントロールできるのです。

儀礼の否定や抑圧はあまり良い解決策ではありません。儀礼は、私たちの手で健全なものに修正して行かなければなりません。

 

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