韓国の礼儀とソンビ精神

韓国の礼儀とソンビ精神

 エマニュエル・パストリッチ (Emanuel Pastreich)

朝鮮の2つの伝統、ソンビ精神と礼  

韓国は領土も大きくなく、人口も多くない国である。大陸と繋がる半島国家だが、南北に分断された一種の島国である。また、約100年前には植民地に転落した痛い傷も抱いている。植民地からの解放後に経験しなければならなかった韓国戦争(朝鮮戦争)はあまりにも残酷な試練であった。それにも関わらず、包括的な文化という概念で大国である。植民地時代から抜け出してから半世紀で韓国経済は世界10位に入るほどの目覚ましい発展を遂げた。それに止まらず、今や文化芸術分野とスポーツ分野においても注目すべき成果を出している。

最近まで特別に「文化」という分野で世界に紹介できるものが多くなかった韓国は、今や世界的な韓流ブームの震源地となり、東南アジアはもとよりヨーロッパを越えて北米大陸まで広まった。PSYの「カンナムスタイル」ブームは一時的な幸運ではなく、韓国文化の底力が世界に通じることを証明した大きな出来事だと思う。パリ、ロンドン、ニューヨークを問わず韓国語の歌詞を口ずさみながら、グループで「乗馬ダンス」を踊っている世界の人々を見ながら、実に大きな変化が起こっていることが分かる。

このように21世紀の世界経済と文化を先導する韓国人の手腕はどこから来たのか。何よりも私はこの500年間持続した韓国の伝統からその力を見いだすべきだと思う。ハーバード大学で韓国の古典文学を学びながら、朝鮮時代の文人のうちキム・マンジュン(金萬重、1637~1692)、パク・ジウォン、チョン・ヤクヨン(丁若鏞、1762~1836)などの文章を興味深く読んだことがある。彼らはソンビ精神を理想とするとともに学問を実践して現実の政治問題を打開する価値の中心に常に「礼」を置いていた。彼らの文章を一字一字読んでみると、理想的なソンビ像と礼学に関する言及が頻繁に登場している。私はこの二つの韓国伝統にとても深い印象を受けた。まず、礼について見てみよう。

朝鮮の礼学、社会秩序を回復する実践哲学

実は、礼学とは礼儀の本質と是非を探求する儒学の一分野である。韓国の礼学はただ冠婚葬祭の単なる事例集ではなく、社会秩序を平和な手段として維持する憲法に近い性格を持つ制度という印象を受けた。西洋文化の土壌で生きてきた私にとっては人間行為の規範であり、社会秩序の根幹として礼学と礼儀を前面に出すことは非常に不思議に思うとともに新鮮さが感じられた。

東アジアで礼は、生活に深く溶け込んですべてに影響を及ぼす人生の一部だった。西洋学者として東アジア4カ国で暮らし学びながら、今はある程度慣れたと思っていたが、日韓中の三国は時代別にかつ地域別に礼の姿が非常に異なっているので、一言で定義したり特徴をまとめることは簡単ではないことに気づいた。ただし、知識人とエリート社会を中心に簡単にまとめてみると、日本の「礼」は慣習中心であり、現実を肯定的に見つめると評価できる。一方、中国の「礼」は全体を中心に社会を統治し、政治的な地位を強調している。韓国の「礼」は感情と社会秩序を包括する特徴を持っていると言えそうだ。

17~18世紀に朝鮮は中国の『朱子家礼』をベースに礼学と知られた独特な形の学問分野を発展させた。礼学は人と人の関係、さらに人と社会、国の問題を重視する学問だった。そうした意味で礼学は実践哲学と言える。(豊臣秀吉による)文禄・慶長の役と丙子胡乱を経た朝鮮社会が実践哲学である礼学にその重心を移したのは、それほど社会秩序の混乱が激しかったことも一つの原因だったと思われる。ソンビさえも名分と礼儀、廉恥よりは利益により関心を持つようになった時、伝統的な秩序の維持と教化の機能を持った礼が強調されるしかなかったのである。

朝鮮の礼学の土台を作った思想家は沙溪のキム・ジャンセン(金長生、1548~1631)であった。沙溪の礼学と政治思想は文禄・慶長の役と丙子胡乱を経た直後の混乱した社会秩序を回復し、国家を再建するための実践的な性格を持っていた。栗谷 李珥の下で学んだ沙溪は『家礼輯覧』『喪礼備要』『近思録釈疑』『経書弁疑』などの著書を残した。このように彼が礼論に集中した理由はすべての人間が善良で正しい心で助け合いながら生きていけるように個人の行動方式を具体的に規定する秩序が必要だと捉えたからである。「仁」と「善」が善悪と道徳を判断する不変の基準であれば、正しい心と善良な心を表わす態度と手続きが正に礼である。したがって、礼は常に善良で正しいものでなければならず、さらに善良で義理堅いものであっても必ず礼として表現されなければならないのだ。

SNS時代の礼儀

一方、礼学は家柄や所属している共同体、政府または国家内で融通の利かない法に頼らずとも正しく礼儀に反しないように行動ができる方法を提示する学問と言える。礼学は、倫理に対する個人の協力と厳しい規則を通じて集団間の葛藤に対する解決方法を提供する。礼学は処罰的な要素を持っていないため、ネットワーク社会で発生する葛藤を解決することにおいて法律より高いレベルの自浄機能をはじめ、より多くの純機能を持っていると思う。

今日の私たちは様々なネットワークを作りながら生きている。よく現代社会を数多くのネットワークの中で行われる複雑な相互関係が、個人の実存的な生き方に重大な影響を及ぼすネッツワーク時代だと定義する。このような社会的なネットワークは近年のフェイスブックをはじめ、SNSを通じて急速に拡大されているが、実は私たちはその正確な本質と意味をきちんと把握していない実情である。さらに、SNSを通じて行われる各種行為と情報交換の範囲、社会的倫理などを規制する法的手段はいまだ整っていない。ある人はこのような問題を取り扱うための法律的・制度的な手段が作れるのかさえ、根本的に疑問視したりもする。

今日、個人の人生と評判は各種のメディアや誹謗行為にすごく簡単に露出されている。その結果、時には悲惨な結果をもたらしたりもする(様々なプライバシーの侵害、名誉棄損などによる悲劇的な事件を思い出してほしい)。それにも関わらず、ブログやツイッターを通じて他者に加えられる有害な行為を規制する法的制度を求めることは、望ましくないだけではなく、非効率的なものかもしれない。ネットワーク時代が開花した今日の現実において、道徳的な行動を勧める新しい対策が切実に求められる状況なのだ。その対策は、なにより処罰中心の法的制裁ではなく、自浄過程を誘導するアクセスでなければならない。

このような側面で韓国の知的伝統のなかで礼学は、現代が抱えるジレンマに意味のある解決方法を提供することができると思う。韓国で発展した礼学は、どうすれば他者とのかかわりの中で適切で礼儀正しい行動ができるのかを深く研究する学問である。これは家族や社会で発生する様々な葛藤や紛争を平和的で効率的に解決する手段になれる。様々な人々が集まって生きていく複雑な社会において、互いを尊重し合いながら、何をしてどう行動すべきかを明かすことがまさしく礼学というものである。

日ごとに流動性が強くなるインターネット時代に法律が規制できる部分は非常に制限的である。一方、礼学は組織運用という側面でとても効果的な手段として機能できる。また、礼学で提示する規則は人間だけではなく、アバターさらにサイボーグにも適用できる。なぜなら、礼学は人かどうかを問うものではなく、何が適切であるのかを問い詰め、礼を重要視するからである。21世紀の情報技術革命は、これまで国と個人を区分した数多くの障壁を切り崩し、その結果、様々な関係の中で大変な流動性を創出した。このような条件で礼学は個人間の関係はもちろんのこと政府機構間の問題に対しても様々な潜在的な規範を提供することができ、これは我々にとっておびただしい価値になるだろう。

現代の韓国と礼儀

伝統的に韓国人は、礼儀と集団意識を非常に大切に考えている。現代化と産業化を経て、礼儀の価値や共同体精神がとても毀損されていると言うが、いまだに多くの人々が礼儀を重視し、大人は子どもに礼儀を教え、子どもは大人に礼儀を表す。でも、本当の礼儀は年齢や性別、職級による社会的階級によってスプリングのように変わるものではない。韓国では年齢や大学入学の年、職位、年収を聞くのが初めて会った人への自然な挨拶だが、これは礼儀とはまったく異なるものである。社会的な地位の高下によって人を尊重したり無視したりすることは、儒教の教えではない。孔子は地位と権力を持った人物にも、決して媚びるようなことはしなかった。すべてを国民の側に立って考え、判断しようと努力した。君主に問題があると判断したら、自ら他国に去ってしまった。

礼儀が本物の価値を持つためには、必ず平等思想が前提となる。韓国人は、アメリカを平等思想が徹底している国と認識しているが、必ずしもそうではない。平等を愛して大切に思うが絶対的ではなく、人によって考える平等の目安はそれぞれである。韓国では父親が箸をつける前は、子どもたちが先にご飯を食べてはいけない慣習がある。以前は同じ食卓で食事をすることも許されなかったほど、父親の権威が保たれていた。しかし、このようなことは真の礼儀ではなく、儒教の合理的な教えでもない。西洋学者として観察者の観点から見ると、このような韓国の父権主義的な権威主義は、形式的な側面が強調されすぎているという考えを拭えない。本質は消え、皮だけが固く残っているのではないかと思われる。

もう一つの例を挙げると、韓国語は英語圏の言葉と異なり、尊敬語が豊富である。尊敬語と謙遜語は韓国語の最も大きい特徴だと言っても過言ではないほど、多すぎる。それが過剰な場合、ややもすれば合理的なコミュニケーションと民主的な意見提案を阻害するのではないかと恐れられている。韓国人がよく勘違いすることがある。英語は上下の概念がないため、大人も子どもも皆がため口で話すと考えていることである。韓国人の観点から見ると、礼儀も概念もない非常識な行動だが、実は英語にはため口という言葉がない。先にも述べたように、平等を尊重するからである。ため口がないのでなお敬語が有り得ない。

礼儀は、時代と状況によって絶え間なく変わりつつある。朝鮮礼学の礎を作った沙溪・金長生も、礼が固定不変のものだとは考えていなかった。朱子の教えをそのまま素直に受け入れることではなく、朝鮮社会の実情に合わせて新しい解釈を付け加えたため、彼の思想が朝鮮社会を再建する精神的な柱の役割ができたことである。変化する現実に合わせて絶え間なく再解釈された例だけが、その合理的な核心を維持しながら後代にも受け継がれるだろう。今日、我々に必要な礼は現実のニーズに応えられる「生きている礼」である。

現代社会とソンビ精神

情報技術革命によって生き方の様態が根本的に変わっている今日の世界で、道徳性と勇気、想像力が発揮できる新しい指導者を育成することはどうすれば可能なのか。今日の課題を解決するために、過去に目を向けて解決方法を探るのであれば、私たちはどのようなことで助けを得られるのか。朝鮮時代のソンビ精神がその解答になるだろうか。ソンビ精神なら道徳性、勇気、想像力を持つ人間を育成するにおいてどんなヒントが与えられるのか。

まず、朝鮮時代のソンビの伝統は人と制度、技術の間を柔軟に調律する方法を教えるという点に注目されている。現代社会は機械の便利さと現代化を強調しすぎたため、人間の根源的な判断力が乏しくなる傾向がある。想像力はコンピュータからは絶対得られない。道徳性も同じである。人間の正しい行為と技術が促進する道は互いに衝突する場合が多い。技術の便利さを時には無視したり、距離を置くことにも勇気や道徳性が必要である。ソンビ精神はそのような流れの中で非常に重要な役割を担うことができる。

ソンビ精神は韓国人だけに留まらない。今、韓国、米国、ヨーロッパなど様々な国で最も問題視されているのが正に責任感のないエリートである。その解決策をソンビ精神から見つけ出すことはどうだろう。韓国の「ソンビ精神」を海外に積極的に紹介するとたくさんの人がインスピレーションを受けるだろう。アフリカの小さな村に住んでいる住民が偉大なソンビ精神、読書、道徳、実践の伝統を生き方の信条にすれば、それこそソンビ精神の世界化になるだろう。

日本には侍精神がある。世界どの国に行っても知らない人がいないほど、広く知られている日本の代表的な精神文化が侍精神である。韓国の子どもたちも遊ぶ時に「僕は忍者だ!」というシーンをしばしば目にすることができる。幼い子どもが日本を代表する精神を口にするという皮肉が目の前で起きたりするのである。それほど日本と言えば侍が、イギリスと言えば紳士が思い浮かぶが、韓国に対する代表的なイメージはまだまだ浮かぶ表象はない。しかし、韓国には数百年間も受け継がれている代表的な精神文化としてのソンビ精神があるのではないか。

ある人はソンビ精神が男性中心主義的な限界を持っていると評価を下げたりもする。もちろん、今日のソンビ精神は男性の専有物になってはいけない。朝鮮時代には父権中心の文化で父親が家庭のリーダーとしての役割をしたが、現代社会で韓国が世界的な国としてアップグレードするためには、女性の役割が非常に大事である。今でも、女性は確かに韓国社会の主なエンジンとして活躍している。女性の役割はこれからもさらに大きくなるだろう。

それだけにソンビ精神は男性だけの伝統ではなく、女性の伝統にまで拡大されていくべきだ。ソンビ精神は新しい希望と展望を与える伝統になれる。古代ギリシャ社会には奴隷もいたし、様々な悪習もあったが、民主主義の伝統はその時に始まった。良いことばかりではなかった時代の伝統を現代では良き伝統に発展させて活用しているのである。ソンビ精神も同様である。現代社会にふさわしい、女性の価値も十分に盛ることができる精神に発展させることもできるし、また積極的にそれを追求すべきだと思う。

伝統から学ぶこと

このような観点から、韓国の伝統文化は、現代社会が直面している多くの問題に解決策を提示することができる。いくつかの具体的な事例を挙げてみよう。まず『朝鮮王朝実録』は、世界的にも稀な記録文化の見本であり、言論制度の見本でもある。また、朝鮮時代の風水思想は迷信だとするのではなく、生態系を考慮して自然を守る環境に優しい自然観を持っている大切な遺産として発展させることができる。上記したように、韓国の礼学の伝統は、SNS時代に最も適した倫理観として開発できる。18世紀、日韓中の三国が共有した東アジアの共同体意識(漢字文化圏)を今日に復活させるのはどうだろうか。十分に可能で有意味なことになるだろう。何より責任感のある知識人を育成することは、今日のすべての国が直面した喫緊の課題である。伝統儒教の中から見える民主主義的な要素や伝統農業が持つ現代的な価値も断じて見過ごせない。

現代中国の礼をより詳しく見てみよう。中国に対して米国や西洋の民主主義の導入を強要すると激しい反発が予想される。しかし、中国の儒教的な伝統、つまり「元以前の民主的な儒教伝統」という形で「民主主義」を紹介すれば、その効果は非常に大きいだろう。中国の儒教的な伝統の中にも「民主主義」的なDNAが存在するからである。伝統の中に存在していた民主主義を復活させることに対しては、別途の抵抗はないだろう。ソンビの伝統をベースにした新しい民主主義であれば、東アジアの「民主主義のルネサンス」も可能ではないだろうか。ソンビ精神の中にはそれほどの潜在力が十分にあると思う。

最近の韓国では、科学者を夢見る子どもの数がだんだん減っているという報道を聞いたことがある。最近の小学生に将来の希望を聞くと格好良く見える職業、金をたくさん稼げる職業、たとえばアイドルとか公務員だと答えるそうだ。大学でも人文学や社会科学、自然科学は次第に淘汰され、経済・経営学や工学・医学のような実用学問に人気が集中している。実用学問が一時的に就職に有利かもしれないが、実際の人生や職業的な活動をすることに役立つかは検証されていない。むしろ哲学のような人文学がより役に立つこともある。

儒教の伝統では昔から倫理とそのベースになる原理と原則を教えることを教育の核心とした。これは非常に優れた教育方法だと思う。真の教育とは特定の情報を注入・伝達することに留まらない。世界が回る原理、問題にアクセスする戦略、冷静に分析して判断する常識を育成することこそが正に教育である。それらを身につけた時、初めて新しいチャレンジに適応できる内的力量が整ったと言えるだろう。

朝鮮時代のソンビは真のソンビの姿勢を完成するために読書をした。「なぜ」よりは「どうやって」に集中する今日の知識人の形態を見ながら志操と気概、清浄な心掛けを育てるのに情熱を注いでいたソンビの姿勢を強調せずにはいられない。「本の中に答えがある」という言葉は、単純に読書ですべてが理解できるという意味ではない。本を読んで何度も推考して理解する過程を通じて知恵を育てる。深く考えながら様々な分野の本を豊かに接することができたら世界を見る鋭い観点を持つことができる。ソンビたちも必ずしも量的にのみ本をたくさん読んだわけではない。まず、核心古典の四書五経を完璧に読みこなし、理解した後で初めて次のステップに進んだ。結局、本を読むことは「世の中」を読むことである。考えも無しに本を1000冊読んだところで、なんの意味もない。

企業文化とソンビ精神

ソンビ精神は疑うことなくすべての韓国人が誇らしげに思う韓国人の文化である。ソンビ精神をベースにした共同体中心の文化を企業に導入すれば、企業革新の新しいモデルが生まれることができる。さらに、ソンビ精神は人種や民族、種族を差別しない普遍的な性格の概念という点において他の国に拡張させる無限の潜在力を持っている。アメリカや日本、ドイツなど国外の企業もソンビ精神を中心とする革新的な企業文化を受け入れることに特別な拒否感を持つ必要はないだろう。

国際社会でサムスン、現代、LGのような韓国の大手企業は非常に大きい力や影響力を持っている。アメリカや日本、ドイツの会社と共に世界的な製造業市場を形成しただけでなく、むしろ世界をリーディングしている分野もある。しかし、国際社会で必ずしも韓国企業の評判が良いとは言いきれない。韓国企業は短期的な収益に価値を置きすぎている。環境問題や人権問題に対する意識が高くなく、企業自体も多くの問題点を抱えていると批判されている。もちろん、韓国企業だけが批判されているのではない。他の国の大手企業も似たような批判を受けている。

収益だけを核心価値と思う企業は、その企業を構成している職員を人間として尊重していない傾向がある。ヨーロッパや米国では初期資本主義時代の試行錯誤を経て、今は相当なレベルの道徳性まで備えるまでに発展した。しかし、ここ数十年間、国際社会で急速に影響力を拡大している。韓国企業はヨーロッパの初期資本主義に現れた過ちをそのまま再現する姿をたまに見せることもある。

核心は企業文化のDNAを変えることである。世の中は今、新しい企業精神と文化を持った会社を強く望んでいる。さて、このような課業を韓国の企業が先導的に遂行するのはどうだろうか。韓国の伝統には人間らしい企業文化を創出することができる精神的なモデルが存在している。ソンビ精神がまさしくそれだ。韓国が一流国家であるという評価を受けるためには、ソンビ精神をベースに社会的な責任を企業が積極的に受け入れて革新をすることで、収益性だけを強調することなく、人類に貢献する努力に対しても評価される文化を作るべきである。

そのような企業文化が韓国から始まることができるのであれば、外国の他の企業もそれを受け入れるだろう。韓国企業がこれから世界の流れに沿っていく存在ではなく、世界の流れを主導する側に属していることも無視できない変数である。世界的な韓国企業が人間の価値を尊重して、協力し合う新しい企業システムを作るのであれば、韓国は国家的にも大きな影響力を持って尊敬されるだろう。

このような変化は究極的に企業にも役に立つことである。全世界が一つの市場に変化する現実の中で企業の目的を収益の創出に限ることは、企業の生存のためにもプラスにはならない。収益の創出と共に職員に対する分配、地域社会と地球村に対する貢献が企業の目的として尊重されるべきである。実績評価も収益や分配、社会的貢献など、すべてを考慮するように変化すべきである。特に、大企業は世界的な問題を解決する社会的なキャンペーンにおいてもっと大きな責任意識を持つ方向に企業の方針を変えるべきである。人間の価値を尊重し、社会的な葛藤を解消し、紛争と貧困、環境問題などを解決するにおいて積極的な責任意識を持つことが必要である。

多くの人々が「危機」について語っている。新世紀に対する希望を話してから10年も経たずして経済危機はもちろんのこと、倫理の危機が押し寄せてきた。危機を呼び寄せた原因としてはそれぞれ数多くの要因を挙げることができるが、最も大きな原因は「無責任なエリート」の存在だと思う。そうした意味で韓国のソンビ精神は世界が共有できるモデルであり、新たな覚醒を呼ぶ触媒剤になれると期待している。

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.

%d bloggers like this: