甦る超国家主義の亡霊 イスラエル化する日本 本田浩邦 研究員 アジアインスティチュート ヨーロッパ諸国にとって第一次世界大戦の悲惨な経験はきわめて大きな衝撃であり、諸国民の軍事に対する観念を根底から覆し、戦争への強い忌避意識を生みだした。ヨーロッパは、1920年代以降、再び戦争が起こることのないようさまざまな国際条約の締結を模索し、30年代にナチスが台頭したときでさえ武器を手にすることを躊躇した。再び総力戦としてたたかわれた第二次世界大戦を経て、ドイツは近隣諸国よりも平和的となった。戦後ヨーロッパ諸国は、冷戦下でのソビエトの侵攻に備えるためにアメリカの保護を求め再軍備を余儀なくされたが、域内においては確定した国境を厳格に守り、ふたたび互いに争うことはなかった。二つの戦争によって軍事対立の世界史的経路は確実に変化し、「万人による万人に対する闘争」はリバイアサンの出現によってではなく、諸国民の自制心によって回避されるという新しい時代が開かれたのである。 ロンドン大学の戦史研究者マイケル・ハワードは、1945年をそれまでの長い戦争の歴史と区分するメルクマールとし、ヨーロッパは「もはや戦争を、人類の避けがたい運命であるどころか、重大な『政争の具』だとも見なさなくなった」と記している。しかし、ハワードは、「かつてそれらの植民地であった地域のすべてについては同じことが言えそうにない」と注意深く書き添えている。むしろ軍事的対立は平和を維持したヨーロッパを去り、パレスチナや中東、アフリカ、朝鮮半島、インドシナ半島など周辺へと移動し猛威をふるった(Michael Howard, War in European History, Oxford Press, 2009.『ヨーロッパ史における戦争』奥村房夫、奥村大作共訳、中公文庫、2010年)。 では戦争抑止の構造は大戦で1000万人ともいわれる被害を出したアジアについてはどうであったか。アジアでの戦争の被害は大きく、人々のあいだの記憶は拭い去りがたいものであった。大戦後、日本は憲法で自衛権を制約した。韓国の軍事体制ももっぱら北朝鮮との紛争に備える防御的なものであった。中国は長らく国際社会から排除され、同国のベトナム戦争や台湾に対する関与もあくまで間接的あるいは直接的な自己保存を目的としたものであり、日本や極東の米軍に対して軍事的な対決姿勢をエスカレートさせることはなかった。したがって、事実から見れば、戦後のアジアにおいても、ヨーロッパの域内平和と同様の論理がある程度働いたものと解釈することができる。戦争の再発を抑止したいという意識は冷戦の複雑な過程をつうじてかたちのない制度としてアジアを規制し続けてきたといってよいであろう。